明るい未来のためにやらなければいけない、たった一つのこと
人類の脳のOSをバージョンアップさせよう !
HOME 総アクセス数 89874


徳永真亜基・東京

この人にメールを送る
人気blogランキング
BSETブログランキング
にほんブログ村

大転換期の予感と事実の追求
9.新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった
個人主義者の詭弁 個人と自我
個人主義の責任捨象と言い逃れ
「自我=エゴ」を制御するもの
相手尊重の意識の原点は?
行動方針5 新理論の構築をどう進めてゆくか
専門家集団と事実
現状の経済システムに問題あり

分身主義を提起します(1)

岡田淳三郎さん。新理論はすでに登場しています@

本当の科学の視点で事実を共認しない限り、世界は一つになれない@

人類はフライパンの中のチャーハンをいつまで混ぜ続けるのでしょうか?@

それでもあなたは”事実”から目をそむけますか!?@



世界平和への扉(分身主義への誘い)
「にほん民族解放戦線^o^」
家庭を聖域にしてはいけない
共同体の時代
生物史から、自然の摂理を読み解く
自然の摂理から環境を考える
新しい「農」のかたち
共同体志向の企業たち
金貸しは、国家を相手に金を貸す
縄文と古代文明を探求しよう!

 明るい未来のために(4)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 1/3 〜

パソコンは時代に合わせてバージョンアップさせるというのに
人類の脳のOSは相変わらず旧式のままです。
科学時代に合わせてバージョンアップさせましょう!
そうすれば、世界はガラリと明るく美しい色に塗り替わります。
撮影:徳永真亜基(キューバにて)



「万人を導く統合理論も、志ある人々の協働によって、進化しつづけてゆくべきものであり、その為にはこの統合理論はあらゆるイデオロギーから脱却し、確かな事実だけに立脚した科学的な理論体系でなければならない。‥‥実現論000705」


科学時代と言われる現代でも、未だに科学を毛嫌いしている人たちがいます。人間の「心」と敵対するかのような冷たいイメージがあるからかもしれません。だけどそのイメージは一昔前の科学だと思って下さい。確かに今までの科学は、人間の心を無視して進んでいたようなところがありましたし、人間を殺戮する物騒な兵器や原子力発電のような危険なものもたくさん作りました。しかしそれは科学には一切罪はありません。人間の「欲」や、不安や恐怖などといった「感情」が、科学を扱うことで生まれてきただけのものです。
今、置いてきぼりにされていた「心」が、一生懸命科学に追いつこうとした結果、科学こそ人類の「心」を最も安心できる場所に導いてくれるものであり、科学だけが、この混迷の時代の人類を救うことができるものであることを知りました。
今回は三回に渡って、「何故、科学でなければ今の人類を救えないのか」ということを書こうと思っています。


「主観の認識は本当に客観と一致しているのだろうか?」
この疑問はあらゆる学問にとって大問題でした。もし我々の「認識」それ自体が当てにならないとすれば、とても困ったことになってしまいます。哲学も科学もあらゆる学問もその主張の根拠をなくしてしまい、人の数だけ存在する主観は互いに対立するばかりで決して交わることはないでしょう。

我々はよく「客観的に見て、それは‥‥だ」というような言い方をしますが、そのように補わなければならないということは、そもそも主観と客観は一致しないからなのでしょうか? それに、「客観的に見て」とは言っていますが、その客観とは、実はその人の主観に過ぎないのではないでしょうか? 
もし本当に誰もが主観を持ち、その主観の中でものを考えていて、そこから外へ出られる人はいないと言うなら、自分の認識が「客観」に一致しているかどうかさえ「主観」には決して確かめようがないわけです。

しかし、多くの人を悩ましてきたこの疑問を、画期的な方法で一気に解決してしまった哲学者がいました。1859年〜1938年を生きたフッサールさんという哲学者です。その方法論を「現象学」と言います。まずその話から聞いていただきたいと思います。「何故そんな古い哲学の話を?」と思われるかもしれませんが、「現象学」は、未だにそれを超える哲学が現れていないと賞賛する人たちがいて、その人たちは今の時代こそ「現象学」の方法論が必要であると主張しているからです。


フッサールさんは、主観には決して確かめようがないにもかかわらず「主観と客観の一致はあるか‥‥」という問いを立ててそこから考え始めること自体そもそも無理があると考え、この認識問題を解くためには「主観・客観」という図式をいったん取り払ってしまおうと考えました。
そこで、「客観それ自体が存在する」という前提をいったん中止(これを「エポケー」と言います)して、論理上は独我論的な主観の立場を出発点にしたらどうだろうと考えました。独我論とは、「真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場」のことです。現象学という方法論は、取り敢えず、この独我論的な主観の立場に立って、同時に、固定観念を含む一切の素朴な確信、科学その他の学問の知見(学説等)、神話や宗教上の世界像などもいったん中止します。そのように準備した上で、主観に浮かぶ一つ一つの内容を完全に疑い得ないもの(不可疑性)に到達するまで、疑っていくというのが、現象学という方法論の特徴です。

ところで、フッサールさんよりも260年ほど前に生きたデカルトさんも、疑い得るものをどこまでも疑って行った先に、今こうして疑ったり考えたりしている「私」の存在だけは疑い得ない、という発想に行き着いて、あの「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)という言葉を残したのは有名な話です。
だけど、現代の科学では「我思う、故に我あり」はどうやら間違いだったとわかり始めています。
自分(自意識)とは、生まれた時から当然のように存在していたものではありません。我々が生まれた時は、自然界と地続きである他の動物たちと同じで本能的な自我しかありませんでした。人間だけに特有の「自分」という意識は、この身体の中に張り巡らされている神経系と、それが接している外界とのフィードバックと、さらにそれらに言葉が絡み合うことで作られていく錯覚であり、また、言葉というものを通して行われるコミュニケーションなどから、我々の脳の中に徐々に作られていく錯覚である、ということがわかってきました。

だからデカルトさんは、脳の中に作られてしまった錯覚である「自分」を言い当てていただけなのです。例えば映画というのは人間の目の錯覚を利用した娯楽、あるいは芸術ですが、そこにあるのは白い幕と光の粒子だけで、本当は高倉健さんがそこに実在しているわけではありません。実際の高倉健さんは、今、自宅のトイレで用を足している最中かもしれないのに、デカルトさんは、銀幕の中の高倉健さんを見て「彼は確かにここにいるじゃないか」と言い張っていただけだったのです。
「彼は確かにここにいて、我々に感動を与え涙まで流させてくれている。それこそ彼がいる証拠じゃないか」ということです。つまり「彼、感動を与える、故に彼あり」という理屈です。

もう一つ、デカルトさんは見落としているけれども、科学時代を生きる我々が気づかなければいけない点があります。デカルトさんは「疑い得るものをどこまでも疑ってみよう」と発案したのは、「自発」的なものであり、その発案に従って実行しているのは「自分自身の意志」の力であると思い込んでいたはずですが、その大前提こそ疑わなければいけないものだったのです。このブログを読んで下さっている方を驚かせてしまうかもしれませんが、実は人間には今まで言われてきたような「意志(意思と言ってもいいです)」などというものは、どこを探しても存在していなかったのです。この科学的な事実を受け入れるかどうかに、我々が怒りや恨みや妬みや不公平感や不満などから解放された、真に平和な新しい未来への扉を開くことができるかどうかがかかっています。

その話は、今はまだ少し脇に置いといて、取り敢えず話をフッサールさんに戻します。
あれっ? 戻そうと思ったら、時間切れになってしまいました。脇道にそれ過ぎましたね。(つづきはこちらリンク
 
7/5 20:05 │ コメント(5) │ トラックバック(0)
 

この日記へのトラックバックURL

http://blog.rui.jp/sys/tb.php/akarui-mirai_18841


この日記へのコメント
名前:
メール:
URL:
コメント:
画像: 画像ファイル
画像タイトル
表示位置: 左上  右上  左下  右下
 


 

>>主体と外部世界の線引きすら流動的
>と言うことなら、我々がいつまでも主体にこだわる意味はどこにあるのでしょうか?もう主体自体がない世界(主体は外部世界に作られていただけの世界)をイメージしてもいいのではないでしょうか?

そうですよね。実現論の「前史」はそのようなイメージを考える上で参考になると思います。


>生きとし生けるものは、全て外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。例えば本能も、その様な外圧適応態として形成され、積み重ねられてきたものである。また全ての存在は、本能をはじめ無数の構成要素を持っているが、それら全ては外部世界に適応しようとして先端可能性へと収束する、その可能性への収束によって統合されている。

外部世界への反力or取り込んだものが内部世界になるのですね。実際、生命の基本単位である細胞膜は、外部世界を取捨選択して取り込んでいる「だけ」で、その出生の秘密は外部世界にあるのですものね。

>何度も推敲を繰り返していますので、今しばらくお待ちください。

楽しみにお待ちしております。

 
Posted by 山澤貴志 2011年10月20日 11:29
 

> 主観−客観という概念自体に無理があるのではないでしょうか。

実は、私もそのように考えています。



> 環境はある生物に影響を与えますが、その生物の存在は環境にフィードバックされます。そういう意味で、主体の内部世界と外部世界には相互関係がある。

これも同感です。



> 主体と外部世界の線引きすら流動的

と言うことなら、我々がいつまでも主体にこだわる意味はどこにあるのでしょうか?
もう主体自体がない世界(主体は外部世界に作られていただけの世界)をイメージしてもいいのではないでしょうか?

そのようなことを次回のブログで書くつもりです。
何度も推敲を繰り返していますので、今しばらくお待ちください。

 
Posted by 徳永真亜基 2011年10月20日 0:33
 

少し、誤読があったようで、申し訳ありません。改めて読み返して、むかーし読んだ竹田青嗣がちんぷんかんぷんだったのを思い出しました(笑)

>現象学は独我論とは違うのに多くの人からそのような誤解を受けている、とおっしゃっています。彼は、現象学は独我論ではなく、あくまでも独我論的な主観の立場を出発点にしたというだけであるということを強調しています。

というあたりが、一般人の思考回路からすると抽象的すぎてついていけないよーという感じがしますよね。

やっぱり、現象学も「懐疑主義」を徹底したという点で、デカルトの枠組みを超えられていないのではないでしょうか。

というか、どうも、主観−客観という概念自体に無理があるのではないでしょうか。

問題の核心は、主体(内部世界)の対象(外部世界)認識の正しさ、つきつめると事実認識とはなにか、というあたりにあるのだと思うのですが、その場合、主体と対象の関係の線引き自体がそんなに確固たるものではないと思うのです。

たとえば、環境はある生物に影響を与えますが、その生物の存在は環境にフィードバックされます。そういう意味で、主体の内部世界と外部世界には相互関係がある。

自然と観念という点でみても、日本の自然は日本人の自然観に影響を与えたが、その自然観にもとづいて日本の自然は改変されていった(ex桜や紅葉)というようなこともあるわけです。

従って、疑い得ない=確固たる主観と疑い得ない=確固たる客観、なるものは存在せず、常に、主体と外部世界は相互に影響しあい、主体と外部世界の線引きすら流動的だという見方をとるべきだと思います。

懐疑主義というのは、そのような主体の流動性という事実を捨象した、個人主義の確立という西洋近代社会に固有な問題意識に立脚したイデオロギーなのではないでしょうか?

 
Posted by 山澤貴志 2011年10月19日 11:54
 

山澤さん、初めまして。
るいネットという素晴らしい場所にたどり着けて、とても嬉しいです。この場所で山澤さんとも出会えて非常に心強く思います。私の参加を歓迎してくださってありがとうございます。「共認時代のパラダイムとしての科学的思考とは何か?」一緒に考えていければと思います。これからもよろしくお願いします。

「フッサールの間主観性すらも独我論であるとする視点は非常にインパクトがあります」と書かれていますが、一つ補足しておきたいと思います。
現象学を絶賛する竹田青嗣さん(現、早大国際教養学部教授)は、現象学は独我論とは違うのに多くの人からそのような誤解を受けている、とおっしゃっています。彼は、現象学は独我論ではなく、あくまでも独我論的な主観の立場を出発点にしたというだけであるということを強調しています。私もそのことに配慮して書いたつもりです。
独我論に近い人と言えば、もしかしたらこのブログの「科学しか今の人類を救うことはできない 〜その3〜」で書こうと思っているインドの詩人タゴールさんかもしれません。

彼は、「自分がいなければ月も存在しないし、もし自分が月を感じなければ月も存在しない」というようなことを言っています。興味深いでしょう!?

 
Posted by 徳永真亜基 2011年10月19日 10:02
 

デカルトだけでなくフッサールの間主観性すらも独我論であるとする視点は非常にインパクトがあります。しかし、近代科学はまさにそのデカルトの懐疑論にこそ原点を置く思考体系です。

ここ2回のなんでや劇場でも、近代思想と近代科学の関係は追求テーマのひとつとされていますので、徳永さんの続きの考察は非常に興味がつきないところです。

共認時代のパラダイムとしての科学的思考とは何か?いっしょに考えていければと思います。

これからもよろしくお願いします。

 
Posted by 山澤貴志 2011年10月18日 22:57

 

1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

明るい未来のために(1)‥‥明るい未来のためにやらなければいけない、たった一つのこと。
明るい未来のために(2)‥‥人類の脳のOSをバージョンアップさせるために必要な最初の数人。
明るい未来のために(3)‥‥ずいぶんと、回り道をしてきました。
明るい未来のために(4)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 1/3 〜
明るい未来のために(5)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 2/3 〜
明るい未来のために(6)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 3/3 〜
明るい未来のために(7)‥‥分身主義の方法論(その最初の一歩)
明るい未来のために(8)‥‥分身主義の方法論(実体と幻想)
明るい未来のために(9)‥‥分身主義の方法論(人間中心の科学の過ち)
明るい未来のために(10)‥‥分身主義の方法論(見えてきたもの)
明るい未来のために(11)‥‥人類の脳のOSのバージョンアップとは!?

明るい未来のために(11)‥‥人類の脳のOSのバージョンアップとは!?
明るい未来のために(10)‥‥分身主義の方法論(見えてきたもの)
明るい未来のために(9)‥‥分身主義の方法論(人間中心の科学の過ち)
明るい未来のために(8)‥‥分身主義の方法論(実体と幻想)
明るい未来のために(7)‥‥分身主義の方法論(その最初の一歩)
明るい未来のために(6)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 3/3 〜

>主観を一旦エポケーしたところから入って (山澤貴志)
山澤さん、非常に有意義な意見ありがとうご (徳永真亜基)
徳永さん、こんにちは。ブログ拝読しました (山澤貴志)
>>主体と外部世界の線引きすら流動的 (山澤貴志)
> 主観−客観という概念自体に無理がある (徳永真亜基)
少し、誤読があったようで、申し訳ありませ (山澤貴志)
山澤さん、初めまして。 るいネットとい (徳永真亜基)
デカルトだけでなくフッサールの間主観性す (山澤貴志)
はじめまして、立石さん。 このブログを (徳永真亜基)
徳永さん、はじめまして☆ 私も、いつも (立石裕美)

2011年12月
2011年11月
2011年10月