明るい未来のためにやらなければいけない、たった一つのこと
人類の脳のOSをバージョンアップさせよう !
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徳永真亜基・東京

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大転換期の予感と事実の追求
9.新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった
個人主義者の詭弁 個人と自我
個人主義の責任捨象と言い逃れ
「自我=エゴ」を制御するもの
相手尊重の意識の原点は?
行動方針5 新理論の構築をどう進めてゆくか
専門家集団と事実
現状の経済システムに問題あり
自らの人生をどう生きるか?何かに責任を転嫁しながら生きても充足しない

分身主義を提起します(1)

岡田淳三郎さん。新理論はすでに登場しています@

本当の科学の視点で事実を共認しない限り、世界は一つになれない@

人類はフライパンの中のチャーハンをいつまで混ぜ続けるのでしょうか?@

それでもあなたは”事実”から目をそむけますか!?@



世界平和への扉(分身主義への誘い)
「にほん民族解放戦線^o^」
家庭を聖域にしてはいけない
共同体の時代
生物史から、自然の摂理を読み解く
自然の摂理から環境を考える
新しい「農」のかたち
共同体志向の企業たち
金貸しは、国家を相手に金を貸す
縄文と古代文明を探求しよう!

 明るい未来のために(5)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 2/3 〜

パソコンは時代に合わせてバージョンアップさせるというのに
人類の脳のOSは相変わらず旧式のままです。
科学時代に合わせてバージョンアップさせましょう!
そうすれば、世界はガラリと明るく美しい色に塗り替わります。
撮影:徳永真亜基(パレスチナ難民の子どもたち。ヨルダンにて)


「全員の社会を、特定の思想に固まった集団が動かすというのは、大きな間違いである。万人の属する社会を導くことができるのは、万人が認める事のできる事実に基づく理論体系(=科学)だけであって、特定の思想などに社会を統合する資格はない。‥‥000704」



フッサールさんは、1936年に『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という著書の中で、科学に警鐘を鳴らしています。彼はその中で「生活世界」という言葉を用いています。彼の主張は次のようなものです。

「もともと、“学問”とは、人間の“生活世界”に資するためのものだった。例えば、測量術とは元来、この牧草地で羊を何匹くらい飼えるかとか、ここからあの町に行くのにどの道を通るのが近いか、といった必要から生まれたものだ。ところがそこから出てきた近代科学は、理念的・抽象的な仮説の世界を拡張し、これを完全な体系として打ち立てること自体を自己目的化してしまった」

言っていることはよくわかりますよね。
人間の世界は動物の世界とは違って、真・善・美といった独自の価値を編み上げていて、それらの価値の一番根本の出所は人間の生活という領域だから、本来はその領域から理論や学が出て来なくてはならないはずで、その逆は有り得ない。つまり、「知」とは人間の生を豊かにするための技術であるはずなのに、現実はその逆の道をたどろうとしている。そう言って、ヨーロッパ諸学が危機に陥っていることを訴えたのです。

これは、客観の存在の確信を得るためには、「客観それ自体が存在する」という前提をいったん中止して、論理上は独我論的な主観の立場を出発点にするほかない、と考えるフッサールさんらしい視点です。しかしそのような警告を知ってか知らずか、人間の生活世界からかけ離れた場所で客観を探り続けた科学者たちはたくさんいました。と言うことは、この人間世界には、フッサールさんが考えるように「生活の必要から学問を志す」という人たちばかりではなく、まったく生活や自分の利益などとは無関係に純粋なる「知」としての、この世界の “ホントウ” を知りたいという探求本能のようなものに駆り立てられて科学を志す、いわば変人たちもたくさんいたという証ではないでしょうか。

フッサールさんが亡くなった1938年というと、ウランの原子核分裂が発見された年ですが、もし、その現象が客観的に確かに実在しているかどうかは主観には永遠に判断できないと言い張るなら、その発見のおかげで、それから73年後の日本に起こった我々の主観が望みもしなかった原発事故は、どのように説明すればいいのでしょうか。そのことが、主観の預かり知らないところで客観は確かに実在しているという証明にならないでしょうか? それとも「その事故のことを新聞やテレビで知る環境にいなかった人には、何も起こらなかったことと同じだ」と言い張るつもりでしょうか? もしその人たちが知覚せずに大量の放射線を浴びていて、その後、確実に身体的な変化が引き起こされていても‥‥ですか?

彼の時代には、主観を圧倒するほどの(真の)科学が、まだ薄弱だったのです。あるいは自分の主観の存在を脅かし始めた科学に対して、脅威や反感を感じるような風潮があったのではないでしょうか。そのような環境の中から、自然な流れとして、フッサールさんの身体を媒体として、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という書物が産み落とされたということです。

その環境の中では、まだDNAが二重螺旋でできている(1953年・ワトソンとクリック)ことも解明されていませんでしたし、それよりも遺伝子がDNAである(1944年・エイブリー)ことも証明されていませんでした。
ビッグバン理論(1948年・ガモフ)も、その証拠である宇宙背景放射の発見(1965年・ペンジャスとウィルソン)もまだでした。
人類初の月着陸(1969年・アポロ11号)などは、ほとんどの人が夢にも考えなかった時代ではなかったかと思います。
脳の運動野や体性感覚野のマップ(1933年・ペンフィールド)が作られるのはギリギリ間に合ったかもしれませんが、てんかんの手術で脳梁を切断したり、病気や怪我で脳の一部が損傷を受けたりした場合の行動の変化などから、脳の局在的な機能が解明されたり、神経細胞のメカニズムとその働きである心が解明されるようになったのは、ごく最近のことです。


フッサールさんは、元々、人間中心的な視点に偏っていますから、その彼が「人間の生活の必要から生まれた学問が、人間を置き去りにしてはいけない」という警告を発するのはごく自然の成り行きです。
かく言う私も、40歳くらいになるまで彼に近い感性で生きていました。興味は詩や音楽や絵画などで、「人間とは何か?」、「自分とは何か?」を知るためには、「芸術とは何か?」、「人はなぜ芸術を必要とするのか?」が解明できさえすれば、全てが理解できると考えていました。そしてその解明に夢中で取り組んでいました。人間の心を置き去りにする科学に対して、あまり興味がなかったので、理系の勉強はしませんでした。

だけど、よく言われることですが、宇宙約140億年の歴史を1年に置き換えてみると、人類の出現は12月31日のまさに年が変わる寸前です。感情や言葉が生まれ、人間の脳に自我や主観が生まれたのは、まさに年が変わる数秒前と言ってもいいくらいかもしれません。フッサールさんはこの数秒前くらいかもしれない「自我や主観」に、いわば140億年の全権を委ねてしまったのです。それがどんなに傲慢なことだったのかは、科学がここまで客観解明を成し遂げた今とならなければわからないことだったのかもしれません。

良い悪いは別にして彼の警告を無視して邁進した科学は、主観の預かり知らないところで起こっている客観の姿を、徐々に明らかにしてきました。その成果が、様々な分野で実っていることを否定する人は現代ではいないでしょう。その結果、今ではフッサールさんの考え方は大幅に変更されなければならない、と言わざるを得ません。(つづきはこちらリンク
 
3/20 7:20 │ コメント(3) │ トラックバック(0)
 

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>主観を一旦エポケーしたところから入っていくと、今まで見えていなかった世界が見えてきます。その視点を分身主義と名づけました。

成る程、方法論的エポケーというか、フッサールの逆を行くということですね。了解しました。

続きを楽しみにしております。

 
Posted by 山澤貴志 2011年10月28日 12:21
 

山澤さん、非常に有意義な意見ありがとうございます。あなたのような方に出会えて、ここるいネットに来てやっぱり良かったと思います。


> 個人主義の悪弊を超えることの重要性はいわずもがなですが、それは主観/客観の二項対立を超える思考フレームをどう提起できるかこそが重要であるように思います。その意味で、「自分とは分身である」という問題提起は非常に有効だと思いますが、そこに至る上でも、むしろ「現象」=主観と客観の間の相互反応にこそ、もっとスポットをあてるべきではないかと思いますが、如何でしょうか?


「現象」とは、主観と客観の間の相互反応である‥‥というのは、その通りだと思います。
そのことは私もわかっているつもりです。
だからこそこのブログの一番初め(10月3日)に、自分に狐が憑依したという錯覚に囚われてしまった人の例を挙げました。現象は決して客観(実体)だけで作り上げているわけではありません。山澤さんのおっしゃる通り、主観と客観の間の相互反応だと考えています。それどころか、人間社会ではむしろ主観の方が比重は大きいとさえ思っているくらいです。


「実体主義」に陥っている印象がある、とのことですが、これもご指摘の通りだと思います。私がこだわっているのは、まさにその点です。今までどうしても我々は「主観/客観の二項対立を超え」られなかったわけですが、フッサールさんはそれを客観を一旦エポケーすることで成し遂げました。
しかし、二項対立は成し遂げたものの、主観から入っていく彼の方法では、いつまでたっても共通了解(共認)に至るはずはありません。

私の場合はそれとまったく正反対に、主観を一旦エポケーすることから入りました。
実は、このことを言いたいためにフッサールさんを引き合いに出させていただいたわけです。そのブログは次の「科学しか今の人類を救うことはできない 〜 3/3 〜」を書き終えた後に「分身主義の方法論」というタイトルで書こうと思っています。
主観を一旦エポケーしたところから入っていくと、今まで見えていなかった世界が見えてきます。その視点を分身主義と名づけました。


> 「客観からもたらされた主観」を幻想と言ってしまうのは、如何なものでしょうか?

ということですが、私は「幻想」や「錯覚」という言葉を、客観(実体)の下位の意味で使うつもりはありません。「そんなの単なる幻想に過ぎないよ」とか、「そんなの錯覚だよ。気にすんなよ」で済ます意味の「幻想」や「錯覚」で使うつもりはありません。

例えば我々は「正常・異常」という時、正常が正しい状態で、異常というのは正しくない状態、あるいは劣った状態と考えます。

しかし、難波紘二さんの『生と死のおきて』という本に次のような言葉がありました。「医学においては“正常”はノーマル(normal)の、“異常”はアブノーマ(abnormal)の訳語である。これは統計学における正規分布(ノーマル分布)の概念から来ていて、ある集団の中で、多数を占めるものが正常であり、少数を占めるものが異常であると定義されている。正常と異常という概念それ自体には、良いとか悪いという価値判断は含まれていない。(中略)つまり、異常と正常のどちらが良いかを判断する基準は、医学や生物学の中にあるのではなく、社会にあるのである」



ということで、山澤さんとの有用な議論は、「分身主義の方法論」を書くまでお預けということにしていただけませんか!?

 
Posted by 徳永真亜基 2011年10月28日 10:21
 

徳永さん、こんにちは。ブログ拝読しました。前半は教えられることも多く、非常に勉強になりました。後半で少し教えていただきたい点があります。

>客観(実体)だけしかなかったということは、主観(幻想)とは、その実体同士が反応し合って生まれる現象に過ぎないという意味です。現象とは、例えば、使い捨てカイロの内部で、鉄の粉と酸素という実体が反応して、鉄の粉が急激にさびて行く時に発生する「熱」のようなもののことです。しかしもっと科学的な見方をすれば、もし使い捨てカイロを解剖して、鉄の粉とご対面したとしても、それは実は実体の見せる現象を見ているに過ぎないと言えます。人間ができることは、その現象から、確かに鉄の粉という実体が存在するという証拠を獲得することだけです。そしてそのような証拠を見つけながら歩んでいるのが科学です。

この視点は「実体主義」に陥っている印象があります。主観が客観からもたらされるという点はおっしゃるとおりだと思いますが、しかしながら、その主体と客体との間で引き起こされる「現象」も、非常に重要な観察対象であり、考察の対象であって、「現象」を注視
する以上、「客観からもたらされた主観」を幻想といってしまうのは、如何なものでしょうか?

個人主義の悪弊を超えることの重要性はいわずもがなですが、それは主観/客観の二項対立を超える思考フレームをどう提起できるかこそが重要であるように思います。その意味で、「自分とは分身である」という問題提起は非常に有効だと思いますが、そこに至る上でも、むしろ「現象」=主観と客観の間の相互反応にこそ、もっとスポットをあてるべきではないかと思いますが、如何でしょうか?

 
Posted by 山澤貴志 2011年10月27日 12:23

 

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明るい未来のために(1)‥‥明るい未来のためにやらなければいけない、たった一つのこと。
明るい未来のために(2)‥‥人類の脳のOSをバージョンアップさせるために必要な最初の数人。
明るい未来のために(3)‥‥ずいぶんと、回り道をしてきました。
明るい未来のために(4)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 1/3 〜
明るい未来のために(5)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 2/3 〜
明るい未来のために(6)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 3/3 〜
明るい未来のために(7)‥‥分身主義の方法論(その最初の一歩)
明るい未来のために(8)‥‥分身主義の方法論(実体と幻想)
明るい未来のために(9)‥‥分身主義の方法論(人間中心の科学の過ち)
明るい未来のために(10)‥‥分身主義の方法論(見えてきたもの)
明るい未来のために(11)‥‥人類の脳のOSのバージョンアップとは!?

明るい未来のために(11)‥‥人類の脳のOSのバージョンアップとは!?
明るい未来のために(10)‥‥分身主義の方法論(見えてきたもの)
明るい未来のために(9)‥‥分身主義の方法論(人間中心の科学の過ち)
明るい未来のために(8)‥‥分身主義の方法論(実体と幻想)
明るい未来のために(7)‥‥分身主義の方法論(その最初の一歩)
明るい未来のために(6)‥‥科学しか今の人類を救うことはできない 〜 3/3 〜

お勧めいただきありがとうございます。 私 (minecraft classic)
>主観を一旦エポケーしたところから入って (山澤貴志)
山澤さん、非常に有意義な意見ありがとうご (徳永真亜基)
徳永さん、こんにちは。ブログ拝読しました (山澤貴志)
>>主体と外部世界の線引きすら流動的 (山澤貴志)
> 主観−客観という概念自体に無理がある (徳永真亜基)
少し、誤読があったようで、申し訳ありませ (山澤貴志)
山澤さん、初めまして。 るいネットとい (徳永真亜基)
デカルトだけでなくフッサールの間主観性す (山澤貴志)
はじめまして、立石さん。 このブログを (徳永真亜基)

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