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観念パラダイムの逆転3 現実とは、人々の意識である
四方勢至 老年 京都 編集 02/01/09 PM05
生存圧力から同類圧力へと場が移行したと云うことは、場=現実が、同類圧力=人々の意識そのものが形成する圧力、の場に成ったことを意味する。つまり、今や現実とは意識である。だから現実を対象化するということは、人々の意識を対象化することに他ならない。

現実とは意識であるという言葉に、違和感を覚える人も多いだろう。確かに、原始人類にとって現実とは、生存圧力=自然圧力そのものに他ならなかった。ただ主体=対象である以上、対象(=自然圧力)に対応する主体(=適応本能や共認充足や精霊信仰etcの意識)もまた確固として存在しており、その意味では、常に現実は意識の内に在ったし、その意識こそが彼らの現実であったとも云える。

しかし、自然圧力そのものは意識とは別個に、意識の対象として存在しており、『現実』は(人々の意識の中以前に)外的な自然圧力として意識されてきた。その後、この自然圧力=生存圧力を基盤として形成された私権圧力は、人々の共認によって形成された圧力ではあるが(従って、決して意識と別個に存在する圧力ではないが)、生存圧力が強い間は、やはり『現実』は外的な圧力として意識されてきた。

だが、貧困が消滅して生存圧力が衰弱し、同類圧力が中心的な圧力になってくると、パラダイムは一転する。同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。
しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。
こうなると、もはや現実を否定することは出来なくなる。実際、現実=同類圧力を形成したのは人々=他人であって、自分だけは別である=自分は無関係であるとは、誰も云えまい。だとすれば、もはや現実を否定することは出来ない。
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