40426 | ・社会統合 ・幼・少・青・壮・老 ・仕事・起業・共同体 ・認識論 ・市場時代 | ||||||
本当は、「集団」に入ったのではなく、社会に出たのだ | |||||||
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人々は、人生の節目ごとに(まるで一大事業の如くに)「学校に入り」「企業に入り」「家庭に入る」のだと認識させられてきた。だが、我々は集団の体を成していない様な「カタワの集団」に、本当に入ったのだろうか? それは、形だけ、上辺だけのことではないだろうか。本当は、「集団」に入ったのではなく、社会に出ていったのではないだろうか。 その証拠に、根無し草の様な個人が、未知の世界たる社会に入る時(はじめて小学校に入る時も、はじめて企業に入る時も、はじめて家庭に入る時も)、不安で一杯になる。しかも、学校であれ、企業であれ、家庭であれ、「カタワ集団」に入れば、必ずその「集団」から資格(云わば身分)の獲得や利益の獲得という私権課題が強制的に与えられる。従って、子供や若者は自我・私権の主体となるしかない。 そこで、何の共認基盤もない根無し草の様な頼りない存在である我々は、何とか仲間を作ろうとするが、そこでは互いの間に殆ど共同体験がないので互いの自我欠乏を自我共認によって充足させる自我仲間にしかならず、また「集団」によって私権課題が強制されているので、その不全から解脱する為の(課題を捨象した)遊び仲間にしかならない。 しかし、「集団」に入ったのではなく、本当は社会に出たのだと考えれば、全く別の世界が見えてくる。本当は社会に出た(=社会の当事者になりたい)のだとすれば、「集団」を超えた人(ヒト)収束⇒認識収束の潮流が、私権の衰弱と同時に生起したのは当然のことだったということになる。 実際、私権の強制圧力が衰弱するにつれて、もともと強制圧力によって無理矢理「カタワ集団」に封じ込められてきた人々の、「集団」離れが加速している。離婚や未婚の増加も、社内告発の激増も、フリーターの急増も、学生のキャンパス離れも、引き篭もりの急増も、全ては「カタワ集団」からの離脱の動きである。それに伴って、従来の人間関係の影が薄くなってきたのも、当然であろう。 そして、「カタワ集団」を超えた社会空間での芸能人志向や起業家志向、あるいはサークルやメル友やネットなど人つながり収束が顕在化してきた。 もちろん、それらは過渡的な姿であり、現在はまだ、社会に出た人々=当事者になろうとする人々が、「集団」を超えた新しいつながりを模索している段階である。 |
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