4829 ・猿と人類 ・社会統合 ・認識論 ・国家時代 
不安発の古代宗教と感謝・同化の精霊信仰
西谷文宏 24 和歌山 建築設計 01/06/01 PM01
「存在不安」は、私権時代の全ての宗教・全ての局面に存在すると私は考えています。キリスト教においても、仏教においても、人々が求めるのは「救済」です。神の御座に祈るのは、魂の救済であり心の安楽であるのは洋の東西を問わず変わりません。これこそ、私権社会の宗教が「存在不安」を抱えている証ではないでしょうか。

その背景にあるのは、自我を基盤に宿した私権社会故の 過剰競争・自我摩擦・搾取等の不条理からの逃避、そして「死」への恐怖と言えるのではないでしょうか。

対照的に、 ケチュア等、ネイティブ・カルチャーに見られる、精霊信仰の発展した「純粋形態としての宗教」において捧げられる祈りは「感謝」と「同一化」です。 いくつか、彼らの言葉を紹介します。

われわれにとって、宗教とは生活様式であり、知であり、理解力である。 自然の力と共に生き、自然と調和して神聖な互恵の関係を結ぶことである。 われわれインディアンは自然の力のすべてを神として崇める。自然の力を恐れているからではない。自然の力を超自然的な存在として見ているからでもない。われわれが自然の力の法則の正しさをよく知り、よく理解してきたからである。われわれは自然の力、その法則に敬意を払い、自然の力がわれわれの生活に恩恵を与えてくれることを深く認識している。 (北米 ケチュア族)

我々の言葉で、「生きる」ことは「呼吸」と同じです。宇宙の全ては呼吸しています。ですから、命を授かった時点から地球のサイクルに入り、宇宙の全てと呼吸を共有しているのです。生命を授かったことに責任を持ち、自らを啓蒙しながら自分の道を歩まねばなりません。それこそが地球を通過している本来の意味なのです。私たちの伝説の中では、命が絶たれたあと、我々は宇宙全体の命を支えている全宇宙的なパワーの一部となるのです。 一個の生が個人的体験を超えて、全宇宙的に広がっていくのです。それは一つの「希望」です。「死」に恐れを感じる必要はないのです。

人間は鳥のように静かに飛び去っていくことができる。地球を通りすぎるだけなのに、なにか記念碑を残してゆくような人は、 それだけ自分に自信がないのです。

なにかを成すために人間は存在していると西欧の人は考えるが、なにも成さないためにいてもいいじゃないか。 人間は宇宙の一部であり、その宇宙そのものが素晴らしい記念碑であり、創造物なのですから。 (以上、南米 クレナック族)

朝起きたら、太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、感謝することだ。 どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。 (北米 ジョーニー族)

このような、彼らの言葉の中に、「存在不安」の影は微塵も感じられません。自らと、全ては同一であることを知り、そこに存在することに、ただただ感謝を捧げるのみ。

現世からの救済を願う、存在不安を抱えた私権社会宗教(キリスト教等)と、万物と同化し、その存在に感謝を捧げるネイティブ・カルチャーの精霊信仰では 雲泥の差があります。 我々は、彼らから多くのことを学ばなければならないと感じます。
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