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同一視あっての期待と応合
矢野悟 23 高知 会社員 04/12/12 PM04
 先日、ある女性の話を聞く機会があった。彼女の話によると、自分は周りの人たちに頼られることが多いとのこと。そして自分が周りの人の期待に応えることで、みんなが充たされていることもわかる。相手がそうやって充たされ、感謝してくれたら、自分もうれしいというのも何となく感じている。

>相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。共感の真髄は、そこにある。共感の生命は、相手(=自分)の期待に応望することによって充足を得ることである。(jgr:010405)

 この辺は、漠然とは感じているようだった。ただ、自分としては本当に充たされた気にならない。どうしても自分を殺して周りに合わせるという感じがしてしまう。要するに、「私ももっと充たされたいのに、ぜんぜん充たされない!」ということ。

>自分で頭の中に描いた期待や評価の充足イメージと、現実に周りから与えられる期待や評価(それらは、周り=仲間によって共認されています)との間には、ギャップが生じます。

>問題は、周りから与えられた期待や評価を(頭の中の充足イメージとの対立から)不満視or否定視した場合です。その時はじめて評価(≒共認)捨象・自己陶酔の自我(回路)が形成されます。(msg:2662 四方さん)

 その女性は、まさに自分の頭の中の充足イメージと、周りからの期待・評価が繋がっていない状態。期待に応えても自分は充たされない。その思いは自我発であるとは思うが、何が足りないのか。

 縄張りを持たなかった原猿たちは、恒常的な飢えの苦痛といつ襲ってくるか解らない首雄の攻撃といった共通の不全課題を抱えていたからこそ、互いに依存収束⇒期待収束し、同一視することで充足する回路を作り上げてきた。つまり、期待に応えることが自己の充足に繋がるためには、互いに共通の不全、課題を抱えていることが前提となっている。(jgr:010404)参照

 喜んでくれたらうれしいと感じているなら、あと足りないのは同一視するという意識ではないか。共認回路と同時に自我回路が一旦形成された以上、相手も自分も同じなんだと同一視することができなければ、不全も課題も共有されない。

 それで相手の期待(らしいもの?)に応えても自分の充足にはつながらずに、「私はやってるのに」「なんで私だけ」という否定や要求の意識になってしまう。そうなってしまうと、相手の期待に応えることも単なるやっつけ仕事に終わってしまう。「みんなの期待に応える」という話は露店でもよくしているが、その前にまず同一視ありきなんだということを、今回改めて感じた。
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