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年金世代が当事者として生きるには?
小圷敏文 壮年 大阪市 建築士 05/10/17 AM08

●事実関係の押さえ
> 医療費の内訳を見ると、8割の医療費を、2割強の患者が使っている。
> そのレセプト上位20の人々のうち、9割は、一ヶ月以内に死んでいる。残りの人も、大半翌月に死ぬか、病院から出られない。
> 6割以上の医療費を10%ほどの人々が使い、そうした高額医療者の9割は数ヶ月以内に死し、手術、投薬は死亡1、2ヶ月前に集中しているという。(「医療費が増えているのはなんで?」)

上記データは、終末医療のあり方を考えさせられる。現行の医療場面では、日常的な疾病や健康不安については街中の開業医の治療・判断を仰ぎ、高度な検査や治療を要する場合は町医者の紹介状をもらって大学附属病院等の高度医療の世話になっている。過半の場合はそれが機能しているが、終末医療の場面では、どうあるべきかの判断を混乱させていると思われる。

●その原因とは?
その根本原因は、「命は地球より重し、という価値観念」にあると思う。親が不測の事故や病変に遭遇した時、まずは、「出来るだけのことはしてあげたい」という思いに駆られるのも、それが根底にあるからという経験をしたことがあるからだ。

父が脳梗塞で倒れた時の身内の反応がそうだった。そして、その価値観を補強するものとしては「親孝行」などの規範群があり、更には、「何もしないと世間体が悪いから」と続き、「高額医療還付制度(*)」がとどめをなすように思う。
(*)参考サイト:http://www.urban.ne.jp/home/haruki3/kougakui.html

終末医療のこれらの問題とは当人の希望発ではなく、当人をさて置いた周りの一方的な感情発だということ。しかも、脳死と判定できるような状況下でも優先すべき判断軸と云えるかが、怪しいということ。というのは、当初は献身的な看病に追われるが、日を追うごとに心身の疲れが蓄積してきて、物言わぬ当人も日増しに痛々しさを呈していくにつれ、「当人もカテーテルに繋がれて生き永らえている事が苦痛かも?」という思い至ることになることからすると、当座の判断は観念の刷り込みに左右され、時を経て、より本質的な答えに至るということを示しているのではないか? と思われるからだ。

●死に様は、生き様の反映?
身内の死期を迎えるに当り、過剰な手当てをするという反応を示すに至ったのは、今という時代特有の現象ではないかとも思う。個人主義・自由主義を拠り所にして共同体を破壊し、根無し草となった都市住民は「核家族化→個室化」を更に加速したが、豊かな共認充足の記憶を持たないが故に、自分自身や廻りへの「言い訳」として、「出来るだけのことをする」ことなったのではないか? 

出自も生前の功労も明らかな仲間内の通夜においては、故人をめぐる思い出話しに花が咲き、明るく盛り上がったりする事がある。それは、決して不謹慎なことではない。故人だったら、こんな時どんな反応をするだろうという思いが参列者の中にあり、その内容がみごとにシンクロした時に、安堵の和みとなるということ。それは、故人が参列者みんなの記憶の中に生きているということ。そして、事ある度に(何がしかの判断を故人との遣り取りや気付きを指針とする度に)蘇ってくるということ。

生前の思いを汲み取れるみんなの判断に委ねれば、終末医療のありかたも見えてくるはず。世間で、「ピンピン・コロリ」に関心があることからすると、大方は、過剰な終末医療など望んでいないのだと思う。にもかかわらず、子供世代の個人的判断という形で抱え込ませるから、重たくなる。

●どうすれば、いいのか?
いよいよ、自我充足のために個人や自由という観念を楯に共同体を悉く解体し尽くした団塊世代が、年金や老人医療を受ける側に廻る時代を向かえる。この期に及んでも、終末医療のツケまで次代に残すようでは情けない。そんなこと露ほどにも思っていないとしても、その意を子供世代に伝えておかなければ、その判断を抱え込ませてしまう。

それ以上の本質的な回答は、認識仲間と語らって共同企業を興す事だと思う。今更どこかの雇われ人になるだけでは事足りない。請われるままに顧問にでも落ち着くなら、お為ごかしの自我を振りまくことにもなりかねない。自前の出資金を持ち寄り、自前の会社(orNPOなど)を運営すれば、自ずと期待と応合の関係の中で果たすべき役割も顕在化してくる。集団みんなで支えることは、あらゆる課題に満ちており、共認充足の宝庫でもある。

しかも、同世代の期待に応える仕事を担えれば、次世代への負の遺産は軽減できる。若い世代も巻き込んでいければ、次代にメッセージも託せる。そして、期待応合の中で生を全うし、血縁関係を超えた仲間に看取って貰えることこそ、本望だろう。

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